Al Mocha

2005年に訪れたイエメン・エチオピア・UAEの旅行記。
Yemen〈イエメン〉
アラビア半島の南部に位置し、国土は南北におよそ北緯17度30分から12度30分までを占めている。
Ethiopia〈エチオピア〉
東アフリカ大地溝帯が国土を斜めに2分。北緯3度30分から14度55分にまたがる。
UAE
7つの首長国で形成される連邦国家。(UNITED ARAB EMIRATES)。首都アブダビ。

1月11日

いよいよ「モカコーヒー」への旅の始まりである。念願だったイエメンとエチオピアの地に足を踏み入ることが出来るかと思うと自然と心臓が高鳴る。
今回の旅は「日本コーヒー文化学会」主催の旅で、旅の日程およびプランは福岡、「珈琲美美」の森光さん。モカコーヒーのプロフェッショナルと同行できるなんて夢のようなチャンス。イエメン行きは10年は先だろうと思っ
ていただけに森光さんと学会員の方々との旅はかなりの刺激を頂けるだろうと思う。
22時45分、アラブ首長国連邦の首都、ドバイに向けてのフライトの始まりです。(以下、森光さんのメールより抜粋)

●旅行趣旨
コーヒーのルーツ・エチオピア、イエメン、その歴史とロマンを訪ねる旅です。そして世界一古いコーヒー栽培地を世界遺産に登録する運動を起こしましょう!

この数年、グルメ・スペシャリティコーヒーの流通でコーヒー店、家庭や職場でより上質のコーヒーが飲めるようになりました。しかしその裏には、競争で差別化をはからねばならない生産者、相場の低迷で利幅がでにくくなった中間業者、オーガニック栽培などによる安全な農産物しか売れなくなりつつあるビーンズ・ショップや喫茶店の内情が透けて見えることも事実です。我々は多収穫農法、大量消費による経済が変換期にあることに早く気が付くべきでしょう。

それは若い世代のスローフード運動の高まりにも伺われます。意図するところは「人間社会と自然との共存」をはかり「自然からの恩恵を分かち合い、足るを知り楽しむ」ということでしょうか。原点回帰するダイナミックな流れの中、コーヒーのルーツ=原産国としてのエチオピア、イエメンが再認識されつつあります。コーヒー原産地には、宗教や文化、険しい栽培条件がむしろ幸いしたかのように、元来のスタイルを守っている聖地ともいえる場所が在ります。

いつの日にか、コーヒー発祥の地カファからコーヒー発見伝説を彷彿させるタナ湖の寺院や修道院を巡り、北・西・南部の名産地を視察、首都アディスからフランコ鉄道でハラールへ。奥地の産地を廻り、ディレダワで精製工場を見学、それから輸出港ディブチにぬけ、紅海をわたりイエメンのアデンにはいる。そしてモカ港を訪ね、北上しホディダ港を見学、西部山岳地方の産地を巡り、首都サナアに至る、風土や宗教、コーヒー飲用文化の違いを楽しむ「モカ・コーヒーの道」を切望したいところです。

今回、魅力のエチオピアでは本場のコーヒー・セレモニーなどを体験し、ハラール州の奥地、ガラムラタ山南斜面にある、現存するおそらく世界最古のコーヒー栽培地=ジェルジェルツー村を訪ねる予定です。そこはコーヒーの世界遺産に登録するにふさわしい場所、いつまでもこのまま保存して欲しい!と願わずにいられないでしょう。

イエメンでは、まず首都サナアのコーヒー卸市場やマタリの産地=バニー・マタル。マナハの集荷場やコーヒー市、また輸出港アル・ホデイダ。そしてコーヒーに携わる者のメッカ=モカ港を訪問します。コーヒー通をうならせること請け合いです。

この旅で、最古のコーヒー栽培地を目の当たりにすることで、世界遺産に登録する運動が起こり、日本コーヒー文化学会から世界に向け発信される。その契機になればと企画いたしました。

「モカ・コーヒーの道」ツアー:日本コーヒー文化学会
協力:社団法人 日本エチオピア協会:日本・イエメン友好協会:イブラヒム・モカの会


1月12日

初日の旅から早くも過酷な旅の予感。アラブ首長国連邦ドバイに飛行機は5:45に到着。そのまま飛行機を乗り換え、一路イエメンに。

空港から直後の様子。こんな感じで4WDに分乗。

空港から直後の様子。こんな感じで4WDに分乗。

乗った車は3号車。隊列を守り街を爆走します。

乗った車は3号車。隊列を守り街を爆走します。




8:45着。6台の四輪駆動車にそれぞれ分乗、乗り換えてサナアの街を走る走る。なんと平均時速90km。クラクションを鳴らしながらすり抜けるように飛ばす運転手。・・大丈夫か?と思う気持ちもイエメンの地に降り立った参加者の気持ちも(推定)平均時速90km。写真撮りまくりで早くもフィルムが足りるか心配する。

ヒラーラ。アルカブースの集荷場から車で約3時間。ここより奥地がブクラン。

ヒラーラ。アルカブースの集荷場から車で約3時間。ここより奥地がブクラン。



ヒラーラ。アルカブースの集荷場から車で約3時間。ここより奥地がブクラン。
本日の最大の目的地はモカマタリの原郷バニーマタルの地を訪れることにあります。

まずはここで説明を・・・「モカ・マタリ」とは「バニーマタルの~」の「マタル(r)」が「マタリィ(ri)」に変形したもので、モカ港から出荷された「バニーマタル」産のコーヒー・・・つまり、「モカ。マタリ」というわけです。

で。もう一つ。「バニーマタル」とはアラビア語で「雨の子孫」の意味。「バニーマタル」とはその部族の住んでいる地方の名前です。イエメン最大部族のバニーマタル族の産地は大きく3つの地域に分かれます。高地から中腹にかけて急峻な谷間にある「ハイダル・ジャルク」。山の斜面のテラスに栽培される「ヒラーラ」。谷底の「ブクラン」。今回のツアーはそのバニーマタルの奥地「ブクラン」を目指したのですが・・・っなんと、その手前の「ヒラーラ」の農作地でタイムオーバー。先行きに不安を感じます。「ヒラーラ」とは(三日月、吉兆)の意味。・・・ぬぬぬっ。

有名なモカ・マタリの産地の一つ、ヒラーラ。コーヒーの木は規則正しく植えられている。

有名なモカ・マタリの産地の一つ、ヒラーラ。コーヒーの木は規則正しく植えられている。

山の斜面の様子。この場所の手前ではカートが植えられていたが、ここはすべてコーヒー畑。

山の斜面の様子。この場所の手前ではカートが植えられていたが、ここはすべてコーヒー畑。




しかし、ここ「ヒラーラ」でもモカ・マタリの秘密に近づけました。標高約2000m。良く整備された農地は黒く湿度を含んだ土で、水を貯められるように土を盛り上げていました。

 ワディー(涸れ川)の土は木と木の間に山形に盛られる。養分を含んだ土の谷は保水も兼ねる。


ワディー(涸れ川)の土は木と木の間に山形に盛られる。養分を含んだ土の谷は保水も兼ねる。



土の正体はワディと呼ばれる涸れ川の土でした。雨期にワディは川となり、山の栄養を水に乗せて土と一緒に川底に沈殿します。山のミネラルを多く含んだ土は天然の肥料となります。まさしく有機農法。

畑の様子。収穫は機械を使わず、人力で行われる。

畑の様子。収穫は機械を使わず、人力で行われる。

団長の森光さんの後ろの木に注目。高さはゆうに5mを超える。樹齢は100年近い。

団長の森光さんの後ろの木に注目。高さはゆうに5mを超える。樹齢は100年近い。




健康なコーヒーの木々はゆうに3mを超す樹齢100年以上の木ばかり。農薬など使わず、有機農法で育てられる木は気候にも強く、病害虫にも強い。その木からは赤く大きな珈琲の実が・・・。口に含むと珈琲の実を食べたときの独特の青臭い味覚の後に甘みが!!驚きです。甘く完熟した実は種をやがてゴールデンビーンに変えます。乾燥させた実は石臼で脱穀され、ギシルとブンに分けられます。石臼で挽いたものはギシルを見れば判ります。ギシルは細かく砕けることなくある程度の形を保ったまま外れます。機械の脱穀ではこうは行きません。そしてココが問題。石臼で外される際に果肉は潰れ、種子に甘みを付けます。これぞ真正モカマタリ。イエメンモカ珈琲の秘密に一歩近づけました。

バニーマタル地方の豆
バニーマタル地方の豆
ハイマーの集荷場にはバニーマタル地方の豆が集められ、脱穀される。ここでギシルとブンに分けられて袋に詰められ出荷。

ハイマーの集荷場にはバニーマタル地方の豆が集められ、脱穀される。ここでギシルとブンに分けられて袋に詰められ出荷。


1月13日

前日はマナーハに宿泊。食後にジャンビーアダンスを披露してもらう。ジャンビーアとは、イエメン人の標準的な服装で、幅広のベルトにへそ前に差している半月刀の事である。ジャンビーアは一人前のイエメン男の証であり、イエメンの象徴とも言えるのではないだろうか?ジャンビーアダンスはそのジャンビーアを抜いて、勇壮に踊る舞踏。最初の軽いテンポの時は「はないちもんめ」みたいな感じなのだが、やがてテンポが上がってくると勇壮になってくる。食後にかかわらず全員参加のダンスは思い出深いものになった。
食事の前に団長の森光さんから「明日のバニーイスマイルはトレッキングがあります。」とのことがダンス中ちらちらと頭をかすめたが、微妙に激しいダンスは小一時間ほど続いた・・・。
翌日のマナーハは快晴。雲が視界より下に広がる景色は標高2000mを実感させる絶景でした。
8:00出発。途中ハジャラの街へ。

ハジャラの街。出入り口は一カ所のみ。外壁は高く、念入りにウチワサボテンが植えられていた。

ハジャラの街。出入り口は一カ所のみ。外壁は高く、念入りにウチワサボテンが植えられていた。

九十九折りの道はイエメンの重要な陸路。道の建設には中国人の労働力で完成。

九十九折りの道はイエメンの重要な陸路。道の建設には中国人の労働力で完成。




現地ではハッ・ジャアラと発音するこの街は、標高2245mに位置、昔のままのたたずまいを見せる城塞の様な街。出入口になる門は一カ所のみでつい10年ほど前は夜になると門が完全に閉じていたそうです。ハジャラは現在、観光地としての色合いが強く、我々が着いたときにいそいそとおみやげ物を準備していた姿はほほえましくも微妙な気持ちになった。

旅は一路「バニーイスマイル」を目指し途中マナーハの集荷場に。ここはアルカブースの仲買人の集荷場で、バニーマタル地方のコーヒーが一度ここに集まります。

いわゆる「コッコ」。乾燥したコーヒーの実は黒く、固い。

いわゆる「コッコ」。乾燥したコーヒーの実は黒く、固い。

この石臼で脱穀。ギシルとブンに分けられます。

この石臼で脱穀。ギシルとブンに分けられます。




バニーマタルと呼べる豆はブクラン、ヒラーラ、ハイダル・ジャルクの3カ所から集められたもので、本物といえるものは石臼で脱穀される。

ギシルを計量する計り。

ギシルを計量する計り。

脱穀後のギシル。石臼で脱穀された物はカラの形を綺麗に残す。

脱穀後のギシル。石臼で脱穀された物はカラの形を綺麗に残す。




マナーハの集荷場。間口は狭く、奥行きがあり暗い。

マナーハの集荷場。間口は狭く、奥行きがあり暗い。



取り引きされるコーヒーは公平に天秤に掛けられる。重さによっての取引。

取り引きされるコーヒーは公平に天秤に掛けられる。重さによっての取引。



山道に見える(この写真じゃちょっとワカラン)のが目的地バニー・イスマイル。

山道に見える(この写真じゃちょっとワカラン)のが目的地バニー・イスマイル。

可能な限りの車での移動は過酷を極める。

可能な限りの車での移動は過酷を極める。




目的地までは麓から約3時間位。谷からの転落、山頂からの落石、パンク、エンジン不良。すべてが考えられる過酷な状況。

山道は過酷を極める。車からは途中、何かが焼けるような臭いが・・

山道は過酷を極める。車からは途中、何かが焼けるような臭いが・・

4WDの限界ポイント。さらに細く、階段のような岩の道を登ります。

4WDの限界ポイント。さらに細く、階段のような岩の道を登ります。




さて、いよいよである。分乗した4WDの行ける限界まで走行するも、道は細く険しくなっていく。山道は下を見ればワディまで一気に下ることの出来るくらいの崖っぷち。運転手の「ビスミッラー」のおまじないに、自分自身も心の中で同時に3回唱える。

判りにくいかも知れませんが、車は3台に分乗しました。前の車と平行でないのが判りますか?この角度です。(奥はコーヒー畑)

判りにくいかも知れませんが、車は3台に分乗しました。前の車と平行でないのが判りますか?この角度です。(奥はコーヒー畑)

山から谷に向かって美しいパターンが幾重にも連なります。何世代にも渡り守る村の血脈です。

山から谷に向かって美しいパターンが幾重にも連なります。何世代にも渡り守る村の血脈です。




4WDの限界からはさらに激しい道程が・・・人は荷台に乗り込み、3台に分乗、岩の階段とも言える坂を勢いを付けて登っていきます。もちろんとなりは崖っぷち。いずれも車はトヨタでした。

進行方向左、岩の崖の合間に美しい段々畑が。

進行方向左、岩の崖の合間に美しい段々畑が。

その反対側、転がれば間違いなく1000mは落ちるでしょう・・。

その反対側、転がれば間違いなく1000mは落ちるでしょう・・。




荷台に乗り込んだトラックに至ってはショックがスプリングではなく板バネの昔懐かしい旧車。やっぱり頑丈なのよ。この当時の車は。今回の旅でトヨタを見直しました。ハードな道ならトヨタ、長距離安全、アクティブカーブ。どんな道でもガンガン登りますっ!!
そんなヒヤヒヤ山道を30分くらい登るとそこは・・・・・

荷台に乗ること約40分。山間から霧の立ちこめる集落が見えてきました。

荷台に乗ること約40分。山間から霧の立ちこめる集落が見えてきました。

バニーイスマイル全景。幻の街を発見した気分です。まさに桃源郷。

バニーイスマイル全景。幻の街を発見した気分です。まさに桃源郷。




まさしくイエメンの桃源郷。「ジュベル・バニーイスマイル」が広がるのです!!!この感動は一生の宝です。山頂にある集落の規模はかなり大きく、山の斜面を何代にも渡って造り上げたんだろなと、一目で判るほどの広大な風景でした。
珈琲の収穫はすでに終わり、若干、屋根で天日干しされている豆がありましたが、すべての実が赤く完熟したものでした。約10日ほど干されて黒く乾いた実もありました。その赤い実は口に含むと果肉の甘みと軽い酸味が印象的でした。うまいです。(後日、バニーイスマイルの袋に詰める手前の豆を持ち帰りましたが、その香りは完熟した糖度の高い果肉の香りがしました。)山間からコーヒー畑に霧が降りていく美しさは悪路を数時間掛けて登った疲れを軽く流してくれました。

村から見る山の風景。山そのものが畑となり、歴史となり、営みとなるその瞬間がそこにはありました。
村から見る山の風景。山そのものが畑となり、歴史となり、営みとなるその瞬間がそこにはありました。

村から見る山の風景。山そのものが畑となり、歴史となり、営みとなるその瞬間がそこにはありました。



テラスで乾燥されるコーヒーの実。奥が乾燥前、手前が乾燥後。

テラスで乾燥されるコーヒーの実。奥が乾燥前、手前が乾燥後。



面白いことに我々が歩くたびに何処からともなく子供がワラワラ湧いてきます。一体何人おるんじゃ。たしかにここまで登る外国人はいないでしょう。これだけの人数の外国人、しかもコーヒー関係者がこの地に登ったのは世界初ではないでしょうか。ちなみにトラックからの山道を現地では「Morimoto Road」と呼ばれているそうです。
そう、Morimotoとは森光のことで、(現地で森光の発音は難しいらしい・・)団長、森光宗男さんの名前が付いた坂なのです。
すばらしい体験でした。いつかもう一度この地を踏みたいと思いました。
この日はホテル到着が10時前、標高は2300mから一気に下がります。ホディダの海辺に面したホテルはなかなか快適。お湯が安定して出ないのが難点。


1月14日

ホディダのホテルは海抜が低いためにそれなりの暑苦しさが。前日、山から山間部を抜けて海に出るまでの間、徐々に体感温度が上がり始めていました。いろいろな表情を併せ持つ国です。
午前中は朝の水揚げでにぎわうホディダを見学。ここホディダは、イエメンの国際貿易港としての顔があります。イエメン産の珈琲はそのほとんどが西部山岳地帯で収穫されます。首都サナアから途中集散地マナハに集められ、脱穀、取引となります。そのほとんどがここホディダで船積みされていきます。

港は明るいペイントの船が所狭しと停泊します。

港は明るいペイントの船が所狭しと停泊します。

市場の様子。

市場の様子。



陸に上がった鮫。大量の鮫を(多分一生分)見た気がします。

陸に上がった鮫。大量の鮫を(多分一生分)見た気がします。



港町としての活気には勢いがあり、陸揚げされた魚が庶民に渡っていきます。いろいろな魚を市場で見ましたが、なかには体長1.5m~2.5mはあるかと思われる鮫なども。しかしそのほとんどがヒレを切られていました。
集荷、船積みされる以上。ここには、やはりコーヒーの最終集荷場がありました。数十人の少女達がアルカブースの集荷場で作業していました。作業内容は欠点豆の選別。少女達はゆわゆる黒いイスラムのフードを被っていましたが、エチオピア・ソマリアからの出稼ぎの少女達です。

イスラム教の国である以上最低限の規則としての服装。粉塵が多く、マスクは必需品

イスラム教の国である以上最低限の規則としての服装。粉塵が多く、マスクは必需品

アルミの大きな皿に豆を入れて欠点豆を探していきます。

アルミの大きな皿に豆を入れて欠点豆を探していきます。



麻袋に詰められて出荷を待ちます。

麻袋に詰められて出荷を待ちます。



選別などの作業は主に女性の仕事のようです。見張り役の女性がいましたが、別段、強制労働のようには見えませんでした。写真を向けると撮られたくないような素振りを見せる女性もいますが(イスラムでは女性にカメラを向けるのはタブー。今回はアルカブースに許可を得ての撮影)出稼ぎの少女達はカメラに抵抗がありません。むしろ撮ってもらいたい様子。

人数は数えていませんが、豆の選別は人の手で行われています。少女達の座るエリアは、選別を始めたばかりのエリア、中級者エリア、上級者と別れています。欠点豆の量がたしかに違いました。

人数は数えていませんが、豆の選別は人の手で行われています。少女達の座るエリアは、選別を始めたばかりのエリア、中級者エリア、上級者と別れています。欠点豆の量がたしかに違いました。



イスラムで金曜日はわれわれの日曜日です。この日は集積場は休みのはずですが、どうやら我々のために仕事の模様を見せてくれたようです。

一つ、イスラムの感覚についてお話しいたします。私達の一日の時間の感覚は、深夜零時より次の日に変わりますね。たとえば14日(金)の始まりは深夜零時から24時間。しか~し、イスラムでは日が昇り、日が沈むまでがその日なのです。朝のコーランで目覚め、日が暮れると次の日となります。たとえば、14日(金)の夕方にイエメン人に「今日何日だっけ?」と訪ねると、「15日(土)」と答えてくれます。夜と昼の世界。ここから千夜一夜の物語が生まれたのでしょう。

ベイト・アル・ファーキフ。イエメンの有名な金曜市。様々な品物が並び、日用品など、ここでかなりのものが揃う。有名なところでティハーマ織り。

ベイト・アル・ファーキフ。イエメンの有名な金曜市。様々な品物が並び、日用品など、ここでかなりのものが揃う。有名なところでティハーマ織り。



途中、かつてのコーヒー集散地ベイト・アル・ファーキフに立ち寄り、市場を見学。イエメンコーヒーのすべてがここに集まり、モカ港より世界にコーヒーが渡って行きました。今現在、コーヒーの取引は行われていませんが、訪れた曜日が金曜日とあってかなりの人混み。

発祥伝説の場所はミシュラファの奥地。ウーサブは広大なエリア故に、特定が難しい。

発祥伝説の場所はミシュラファの奥地。ウーサブは広大なエリア故に、特定が難しい。



さて、本日の旅の目的はコーヒー発祥伝説に迫ります。まずはおさらい。発祥伝説に触れてきましょう。

「オマール発見説」・・アラビアの回教徒シェーク・オマールは道徳上の過ちにより、イエメンのモカからオーサバ山中(ウーサブ地方 モカより北方約100Km)に追放の身となりました。飢餓に苦しみつつ山中をさまよううちに、その不幸を嘆き師アル・シャージリの名を叫びました。すると一羽の鳥が枝にとまり、妙なる調べでさえずりました。手を伸ばすとそこにはコーヒーの花と実がなっていました。彼はその果実を採り、持ち帰って煮出し、飲んでみたところ、心身に精気がよみがえる効力を知りました。医者でもあったオマールは、この実を使い多くの病人を救ったので、ほどなく罪を解かれ、再び聖人としてモカに迎えられました。

そうです。発祥を確かめるべく。ウーサブのエリア、ミシュラハの奥地を目指します。ウーサブと言うエリアはとても広いらしく、「ここ」を特定するのはとても困難な作業です。
舗装道路から途中、ワディーに入り走り続ける事約3時間。道程は長く、コーヒーの木の姿無く。むしろワディーに沿ってバナナとマンゴーの畑が続いていきます。発祥にあるように鳥の姿は不思議とあまり見ませんでした。
ようやく見えてきたウーサブの標高は500m。実際現地に行くと発祥には遠い気がしてきました。村の人の話では、伝承について聞いたことがないらしく。15年前までは、この地域でもコーヒーは育てていたらしいのですが、現在はマンゴーもしくはカートが育てられているとのこと。残念。しかし、有力な情報として奥の山では今でもコーヒーは生産されているとのこと。伝説の検証はまだ終わりません。


ウーサブ全景。奥に見える山ではコーヒーの生産は行われている。

ウーサブ全景。奥に見える山ではコーヒーの生産は行われている。

村の裏から山を望む。ここからだとトレッキングになるらしいが、別の道からは車が入れるとのこと。

村の裏から山を望む。ここからだとトレッキングになるらしいが、別の道からは車が入れるとのこと。




伝承はイスラム発祥説とも言われています。当時の積出港「モカ」とウーサブの手前「ホダイン」(農業としての、プランテーションコーヒーの生産はホダインから始まったと言われる)を結びつけて、商業的な伝説を創ったのではないでしょうか?ホダインはプランテーションである故に、伝説的な売り文句でウーサブの発祥を考えたのかもしれません。しかし、検証するまでは終わりません。いずれこの裏の山に入って検証したいと思いました。(実は本気で思ってます。)

村の入口の大きな木。この木ならシェーク・オマールの話を聞いていたかも知れません。

村の入口の大きな木。この木ならシェーク・オマールの話を聞いていたかも知れません。


1月15日

コーハのホテルには前日、10時頃到着。
旅の疲れを熱いシャワーで・・と言いたいですが、お湯が出ない・・蚊はいる、ダニに咬まれる、で見た目はかなり良いホテル(コテージ風の)なのに、旅のワースト3に入るホテルでした。(後に聞いた話。火を付けている蚊取り線香に蚊が止まってた部屋があるらしい。)
しかも、本日は5時起き、6時朝食、7時出発。過酷です。
しか~し、本日の予定はなんと「モカ港」です。コーヒーを志す者の聖地。過酷だなんて言ってられません。

モカ港までの道は平地をひたすら駆け抜けます。必然的に気分は盛り上がって来ます。

モカ港までの道は平地をひたすら駆け抜けます。必然的に気分は盛り上がって来ます。

来た道を振り返ります。この側には昔ながらの佇まいの(アフリカ系移民)マッシュルーム型の家が。

来た道を振り返ります。この側には昔ながらの佇まいの(アフリカ系移民)マッシュルーム型の家が。




モカ港までの道中、軍が先導。今考えれば危ないところなんだろな。と思う。モカ港まではほぼ一直線の長い道。運転手のおいちゃんは車を併走しながら腰のジャンビーアを抜いて片手でジャンビーアダンス。ノリノリです。砂埃を上げて滑走する4WDはまるでテレビの特番で見た秘境の旅そのもの。ほんと、車の走行だけで良い経験ができてます。

途中、軍事施設を抜けていきます。軍事施設には付き物の巨大な発電所を横目に(もちろん撮影禁止地帯)約30分。そこに憧れの港「モカ」の姿がありました。青い空とエメラルドグリーンの海は一生の宝となりそうです。

かつて、コーヒー貿易で莫大な富を得たモカ港。今は昔の佇まいをひっそりと残す。

かつて、コーヒー貿易で莫大な富を得たモカ港。今は昔の佇まいをひっそりと残す。

海は遠浅の海岸線。旧市街と軍事施設が並ぶ現在のモカ港。

海は遠浅の海岸線。旧市街と軍事施設が並ぶ現在のモカ港。




現在のモカはコーヒー貿易が栄えていた頃の名残である「旧市街」と、その側には軍事基地があるという2つの顔がありました。

桟橋の跡。

桟橋の跡。

桟橋の反対側には砲台の跡が。

桟橋の反対側には砲台の跡が。


そして、海に向かって、ミナレットが佇みます。

そして、海に向かって、ミナレットが佇みます。



砂浜での撮影会が終わるとなんと、漁船に乗り込み海からのモカ港探索です。3台の漁船に分かれ、海より眺める旧市街に18世紀の商人達と同じ視線にいる自分に感動です。

貴重な体験でした。エメラルドグリーンの紅海にかつての繁栄を想像しました。

貴重な体験でした。エメラルドグリーンの紅海にかつての繁栄を想像しました。

海からの「モカ港」。ミナレットが灯台のごとく存在します。

海からの「モカ港」。ミナレットが灯台のごとく存在します。




かつてのコーヒー貿易の栄光はコーヒーが出荷される前に集められていたという税関所の跡や桟橋の跡、砲台跡など崩れていくのではないかと思うような所ばかり。

イタリア領事館跡。かつての繁栄の跡をひっそりと今に残しています。輸出国の中で一番最初に領事館を建てたのはイタリア。

イタリア領事館跡。かつての繁栄の跡をひっそりと今に残しています。輸出国の中で一番最初に領事館を建てたのはイタリア。


コーヒー商館の一つ。オランダ領事館。イエメンからの輸出はオランダが最初に手がけた。

コーヒー商館の一つ。オランダ領事館。イエメンからの輸出はオランダが最初に手がけた。

税関所の跡。今は建物の名残は柱のみになっていました。

税関所の跡。今は建物の名残は柱のみになっていました。




その中で灯台のような存在感の「アル・シャージリー・モスク」は砂の中、一際の存在感でした。

アル・シャージリー・モスク。建物のない中にそびえ立つミナレットとモスクは青い空にその輝きをおとしていました。ここでは今でも礼拝が行われています。

アル・シャージリー・モスク。建物のない中にそびえ立つミナレットとモスクは青い空にその輝きをおとしていました。ここでは今でも礼拝が行われています。



16世紀にこの「モカ」からコーヒーが世界に向けての第一歩を歩み始めます。1602年に設立されたオランダ東インド会社は、アジアとの交易の中継としてイエメンに着目。1618年にはモカに商館開設の許可を得ることができました(同時にイギリスも)。当時、サナアの西、ハラズやバニーマタルで収穫された豆は途中、ベイト・アル・ファーキフで集積され、モカに運ばれ、最初のコーヒーはオランダが1628年に40袋をモカより積み出しました。1661年には、ヨーロッパで始めてコーヒーがアムステルダムで荷揚げ、販売されたそうです。18世紀初頭、イギリスも貿易に参加。コーヒー交易はピークを迎えます。

コーヒーによって莫大な富を得たイエメンですが、やがてコーヒーは南のアデンからも出荷されるようになり、1839年、イギリスがアデンよりコーヒーの買い付けを始めた事と、苗木が外に持ち出され、18世紀中頃から、オランダはジャワで、イギリスはセイロンでのコーヒー栽培を始めたためにモカは衰退を始めます。

そもそも、コーヒーはスーフィー(イスラム神秘主義者)の飲み物でした。ポルトガル人はこのスーフィーの儀式を見て買い付けをはじめました。「アル・シャージリー・モスク」に奉られている人物はまさしく実在した人物アル・シャージリーで、13世紀のスーフィーの指導者でした。後にアル・シャージリー派のサブ・ハーディーがコーヒーを薬としての服用から、飲料としての一般開放を行いました。スーフィーの儀式でも用いられるこの不思議な飲み物「コーヒー」はオランダ人の目に留まり、買い付けられました。「アル・シャージリー・モスク」では、指導者の眠る棺が静かに私達を迎えてくれました。

モカ港の余韻を残し、旅はイエメン第2の都市、タイズへ。

タイズ全景。予想以上の大都市。

タイズ全景。予想以上の大都市。



タイズ到着は夜8時近く。モカを見た興奮と勢いか、タイズの街に繰り出すことに。スークを1時間ほど探索。其処では念願のソウブ(長衣)とイエメン人が携帯するジャンビーア(J字状の短剣)を購入。街は活気があり、食べ物やスパイス、女性用のドレスや装飾品にあふれていました。注目すべきはなんとコーヒーロースターがあったということです。しかし豆を焼くだけの機械という印象が強く、煙突の出し方などは建物の形に沿って配管って感じでした。しかも売り方は挽いたコーヒー豆をスパイスの延長に置いて販売してました。
ローストは浅焼き。お世辞にも品質がよいとは思えませんでした。

今回のホテルは旅行中最高のホテル。部屋は綺麗。バスタブはある。夜景も見える。タイズ来るなら贅沢してここに泊まってみては?ちなみにホテル名は「ソフィテルホテル」。外資系のホテルです。観光にはもってこいの場所。久々にゆっくりと眠れそうです。


1月16日

この旅が始まってから、緊張と期待で体を休ませる手段は「疲れ」から来る睡眠でした。いやぁ~、昨日はよく眠れました。今回の旅の一番良いホテルは疲れを癒してくれました。
本日の予定はイエメンの中で緑豊かな土地ジブラとイップの見学ですが、ここで若干の予定変更。イップの見学を取りやめてサナアに戻る途中、イエメンで初めてコーヒーをプランテーションとして栽培したホダインに立ち寄る事になりました。

タイズに入る手前。山間の緑豊かな風景に驚きました。

タイズに入る手前。山間の緑豊かな風景に驚きました。

到着してすぐ、ミナレットが見えます。

到着してすぐ、ミナレットが見えます。


標高約2000mに位置するここジブラは、今まで見てきた北イエメンの山岳地帯とは緑の感じが違うように思いました。背の高い木が多いのです。日本の山肌ほど木はありませんが、イエメンの中では比較的日本に近い感じです。


街の中を歩くと大体どの位置からもミナレットが見えます。

街の中を歩くと大体どの位置からもミナレットが見えます。

ミナレットのすぐ側にあるアルワ・モスク。

ミナレットのすぐ側にあるアルワ・モスク。



ジブラはかつて、女帝アルワが治めた街でした。11世紀後半のスレイヒ朝の王アハマド・アル・ムカッラムは妻アルワの政治的才能を認め国事を彼女に委ねていました。このとき彼女は国内を視察して回ったあと、サナアの民衆を集め夫に示しながら「ご覧なさい、見えるものは剣の光と野蛮な刀、それに槍の矛先のみです」と言い、次に夫をジブラに連れて行き「ご覧なさい、見えるものは羊飼い、そして油と蜂蜜の壺を持っている人ばかり。こうした人々の中で暮らす事がどれほど良い事でしょう。」と言ったのでムカッラム王はサナアからジブラへの遷都を決意したそうです。
男女が平等とは言い難いイエメンにおいて、11世紀に女帝が治める事実は(シバの女王も同様ですが)実に面白い。能力あるものが指導する。これこそが国を安全に、かつ進歩的な舵の取り方ではないでしょうか。

茶色のこのミナレットは約500年前に建てられたそうです。下の白いミナレットと向かい合わせに立ってます。間にはモスクがあり、時間帯がお祈りの時間とずれていましたが、数人がアッラーに祈りを捧げていました。

茶色のこのミナレットは約500年前に建てられたそうです。下の白いミナレットと向かい合わせに立ってます。間にはモスクがあり、時間帯がお祈りの時間とずれていましたが、数人がアッラーに祈りを捧げていました。

この白いミナレットは約1000年前。つまり女帝ジブラが治めた時代に建造。風化しにくいのは漆喰で定期的に表面を保護するため。まさに信仰心の象徴。

この白いミナレットは約1000年前。つまり女帝ジブラが治めた時代に建造。風化しにくいのは漆喰で定期的に表面を保護するため。まさに信仰心の象徴。



女帝は都をジブラに移し、70年間に渡り国を治めたそうです。なんと彼女は92歳まで生きたそうです。イエメンにおける平均寿命は1990年の調査で46.3歳。これは乳幼児の死亡率が高いためにこのような数字になるらしい。強い生命力が生き残る環境では強い人は自然と長生きできるのでしょう。アルワ女帝は国と自然、そして信仰を大切にしました。彼女はモスクを沢山つくりました。しかも女性用のモスクも造ったそうです。

モスクに入る前に手足、口などを洗うための水道。

モスクに入る前に手足、口などを洗うための水道。

外側から見たモスクの様子。

外側から見たモスクの様子。



モスクの中は基本的にイスラム教徒でなければ入る事は許されません。「入り口までなら」という許可が出たので様子を見る事が出来ました。入り口には年齢は判りませんが、管理者の一人だと思われる方がムスリムでもない私達を迎えてくれました。

入り口すぐ隣、この木のベットは死者を運ぶベットだそうです。

入り口すぐ隣、この木のベットは死者を運ぶベットだそうです。

中側から見たモスクの様子。入り口までの入場が認められました。

中側から見たモスクの様子。入り口までの入場が認められました。



死者は今でも土葬だそうです。遺体を清め、布にくるみ、墓場まで木のベットで運び土葬するそうです。

モスクから下る途中、花売りの少女。現在のジブラは観光都市でもある。イエメン人が緑多い場所として(もちろんアラブの中で)自慢の観光スポットだからである。

モスクから下る途中、花売りの少女。現在のジブラは観光都市でもある。イエメン人が緑多い場所として(もちろんアラブの中で)自慢の観光スポットだからである。

観光客は我々以外にイタリア人が目に付いた。飛行機の中でも思ったのだが、イタリア人はイエメンブームなのか?イタリアに興味を持ちイタリアに行き、その3年後イエメンにいる自分が面白く思えた。たしかに、イタリアもイエメンも歴史が作り上げた都市であるのは間違いない。(勝手に)同行した案内役の少女は英語、イタリア語、ギリシャ語が喋れて、現在ドイツ語を取得中だそうだ。

観光客は我々以外にイタリア人が目に付いた。飛行機の中でも思ったのだが、イタリア人はイエメンブームなのか?イタリアに興味を持ちイタリアに行き、その3年後イエメンにいる自分が面白く思えた。たしかに、イタリアもイエメンも歴史が作り上げた都市であるのは間違いない。(勝手に)同行した案内役の少女は英語、イタリア語、ギリシャ語が喋れて、現在ドイツ語を取得中だそうだ。



ドーム上の白いモスクは12世紀の終わりに建設されたアルワ・モスク。アルワ女帝死後にアルワ宮殿跡といわれるダール・アル・イッズの横に建設され、金曜日の昼の礼拝には町中の全てのモスクが閉まり、町中の人がこのモスクに集まるそうです。

本日のコーヒーの旅であるホダインはコーヒーの栽培が始まった場所と言われています。イスラムでは1454年にコーヒーを飲むようになったと言われるのがアデンの宗教学者ザブハーニーです。
あくまで、「豆を焙煎して煮出す」その「覚醒作用」に注目したと言う意味ではスーフィーの修行者であった彼が最初。
修行僧が飲んでいる液体を「モカ」で見たオランダ商人がコーヒーを輸出したというのは(1月15日)で記述しているので参考にしてください。
ホダインはコーヒー発見伝説のウーサブと積出港モカとの間に位置する場所で標高約1235m。伝説を裏付けるために(商業的に)作ったプランテーションではないか?との見方もあります。

収穫の時期が終わっているため、実も花も皆無。ポツリと咲いてあったコーヒーの花。

収穫の時期が終わっているため、実も花も皆無。ポツリと咲いてあったコーヒーの花。

同じくコーヒーの実

同じくコーヒーの実



訪れた農園は150年の歴史を持つ農園でワディー(涸れ川)に沿うように栽培されていました。農園と言っても整地後、コーヒーを植えたと言うわけではありません。もとからあった森の中にコーヒーの木を植えて育てた場所でした。つまり、コーヒー栽培に必要なシェードツリー(コーヒーの木に日光が当たりすぎるのを防ぐコーヒーより背の高い木の事)がある所にコーヒーを植えたのです。

シェードツリーの木(隣のバナナの木も)。

シェードツリーの木(隣のバナナの木も)。

水不足のため元気がないコーヒーの木。

水不足のため元気がないコーヒーの木。



明らかに管理不足の状態。自然のままに生えて自然と実をつけたものを収穫していたのでしょう。ここに管理されない訳も潜んでいます。豆を収穫して出荷する際に必ず仲買人に豆を売ります。売る方は少しでも高く、買う方は少しでも安く取り引きしようとします。お互いの間を取って交渉が成立するわけですが、売る方は売るまでにいかに経費をかけないかで利幅がきまります。おそらく、管理がなされてないのはこのためでしょう。
しかもこの地方2005年1月の時点で8年ほど雨量がほとんど無いそうです。結果、コーヒーは実を結ぶ事が無く木は痩せていくばかりです。

この農園ではシェードツリーが枯れているという有様。 シェードツリーがかなり高くのびていると言う事はコーヒーの木と同時に植えられていないと言う事でもある。 このシェードツリーも含め、全体的に緑に生気がありませんでした。

この農園ではシェードツリーが枯れているという有様。
シェードツリーがかなり高くのびていると言う事はコーヒーの木と同時に植えられていないと言う事でもある。
このシェードツリーも含め、全体的に緑に生気がありませんでした。

コーヒーの木は一カ所に数粒の種をまいて育てる方法。木はカットバックされていないので上に上にと伸びています。 栄養はワディーの泥を使います。雨が降らない、川に水が少ない、となると栄養も与えられません。一時的な天候以上なのでしょうか?それとも地球が変わってきてるのでしょうか?

コーヒーの木は一カ所に数粒の種をまいて育てる方法。木はカットバックされていないので上に上にと伸びています。
栄養はワディーの泥を使います。雨が降らない、川に水が少ない、となると栄養も与えられません。一時的な天候以上なのでしょうか?それとも地球が変わってきてるのでしょうか?



ホダインはモカ港とも近く、伝説が生まれたウーサブを奥にする場所。
かつて、伝説のウーサブ産のコーヒーとして売られていたかもしれない。ひょっとして、この木の先祖をたどれば伝説を紐解く鍵になるかもしれません。果たして伝説は真実か否か。ホダインはモカコーヒーにとって重要な産地です。

この状態からも判るように明らかな水不足と栄養不足。

この状態からも判るように明らかな水不足と栄養不足。

木も土も痩せてしまってます。

木も土も痩せてしまってます。



コーヒーがよく育つ土地柄はイエメン人の嗜好品でもある同じアカネ科のカートも良く育ちます。コーヒーは外貨を稼ぐ年に数回の手段ですが、カートはすぐ現金収入になります。イエメンコーヒーはその産地をカート栽培に移行されている問題があります。ひょっとしたらこの場所もいずれカート栽培に移行するかもしれません。

もう一つのイエメンコーヒーの現実を目の前にしてホダインを後にしました。サナアに向けてホダインを夕方に出発。到着は9:00過ぎるなぁ、と思いながら。明日の夜にはもう一つのモカコーヒーの産地エチオピアに出発です。


1月17日

昨晩、サナアのホテルに到着後、夕食の時間に明日の朝「ヤヒヤさんのコーヒーショップ」に行く人は早起きして出発、寝たい人は寝て良し。と、参加者に挙手をしてもらう場面があった。・・・全員参加、満場一致。
団結力は日増しに強くなる。
朝、6:00出発。サナア旧市街までは徒歩約10分に位置するホテル。

早朝のイエメン門(バーブ・アル・ヤマン)。

早朝のイエメン門(バーブ・アル・ヤマン)。

門をくぐり、広場から見たイエメン門。

門をくぐり、広場から見たイエメン門。


広場スークから「ヤヒヤさんのコーヒーショップ」を目指します。早朝にもかかわらず多くの人で賑わってます。・・・もちろん朝のお祈りの後だからですね。

広場スークから「ヤヒヤさんのコーヒーショップ」を目指します。早朝にもかかわらず多くの人で賑わってます。・・・もちろん朝のお祈りの後だからですね。



ヤヒヤさんのコーヒーショップはイエメンでも珍しいブンを飲ませてくれる店です。アラビア諸国にはマクハと呼ばれる喫茶店がありますが、イエメンではマクハは殆ど無いそうです。ゆわゆる中近東的な風景の一つに「男達はマクハでコーヒーを飲みながら水パイプの煙草を楽しみながらおしゃべりをする」はイエメンには当てはまらないかもしれません。なぜならイエメンには「カート」があるからです。カートはイエメン人の嗜好品で、アカネ科の植物です。新芽部分を口に入れて貯めていき、その葉のエキスを甘いジュースや煙草と一緒に楽しむものです。一回に約200~300枚の新芽を口に含むために(こぶとりじいさん)のようになります。この葉っぱには覚醒作用があり、昼を過ぎたら仲間と集まってカートを噛むのがイエメンにおける喫茶店の役割なのです。つまり、集まる場所があるので「集まる場所」は必要ないわけですね。

朝日を浴びた旧市街の間を抜けていきます。

朝日を浴びた旧市街の間を抜けていきます。

世界遺産登録の町並みはアラビアンナイトの世界。

世界遺産登録の町並みはアラビアンナイトの世界。



イエメンでの一般的の飲み物はシャーイ(紅茶)、またはギシルです。ギシルとはコーヒーの殻の部分で、コーヒーの実を脱穀して種(ブン)は輸出に殻(ギシル)は国内消費されます。イエメン人は別に余った所を飲んでいるのではありません。イエメン人にとってギシルこそ重要。ギシルが彼らのコーヒーなのです。ギシルは保存が利きません。しかしブンは保存が良ければ数年は持ちます。ここに国際商品としてのブンの価値があるのです。

到着しました。ヤヒヤさんのコーヒーショップです。店の大きさは約4坪の小さなお店です。21人+ガイドの我々が占拠した感じです。全員、ギシルとブンを注文しました。 ギシルは一杯約10円。ブンは約15円とちょっと高め。

到着しました。ヤヒヤさんのコーヒーショップです。店の大きさは約4坪の小さなお店です。21人+ガイドの我々が占拠した感じです。全員、ギシルとブンを注文しました。
ギシルは一杯約10円。ブンは約15円とちょっと高め。

カフワ・アル・ギシル

大きなヤカンの中にギシルと水、それにカルダモン・シナモン・ジンジャー・砂糖を入れて煮出します。イエメンではそれぞれの家庭でのレシピがあるそうです。ゆわば「お袋の味」。ギシルは正式には「カフワ・アル・ギシル」ギシルコーヒーと言う事です。味はショウガが利いて体が温まります。葛根湯に似ている味と言えばいいのでしょうか。個人的には好きな味でした。


ブンは正式には「カフア・アル・ブン」。抽出方法はトルコ式。

ブンは正式には「カフア・アル・ブン」。抽出方法はトルコ式。

ブンの抽出は注文の度に作ります。ギシルに比べ時間がかかります。

ブンの抽出は注文の度に作ります。ギシルに比べ時間がかかります。



オスマントルコの強大化により、イスタンブールのカリフは1517年、サナアを軍により占拠。紅海沿岸で活動していたトルコ人も一掃して南アラビアを支配。トルコ第一次イエメン占領は1642年まで続きます。この後19世紀までイエメンはオスマン帝国の版図の中にあり、外交権を持たなかったので「モカ港」を通じたコーヒー取引しか外国との接触はありませんでした。しかし、インド洋交易の主導権を握ったイギリスが1839年にアデンを軍事占拠して以降、イエメンは近代世界との接触が始まります。
1869年にスエズ運河開通。アデンは東西航路の重要な中継地点になり、これに危機感を覚えたオスマントルコは名目化していたイエメン支配を強化します。1872年に軍隊を送り、第2次イエメン占領が始まります。
その後、1904年。イギリスとオスマントルコの間で条約が結ばれ、北側をトルコ、南側をイギリスの勢力圏とする事で合意(なんと勝手な事でしょうか。)南北イエメンの境界線が決められてしまったのです。
この歴史的背景から、ブンの抽出方式がトルコ式なのは納得できます。

ギシルをヤカンからすくうにはイブリックの様な道具を使います。

ギシルをヤカンからすくうにはイブリックの様な道具を使います。

旅も中間に差し掛かると馴染みます。左:モアのマスター堀さん。右:金沢大学教授、広瀬さん。

旅も中間に差し掛かると馴染みます。左:モアのマスター堀さん。右:金沢大学教授、広瀬さん。



世界遺産に登録(1986年)されているサナア旧市街は2500年以上も前から人々の暮らしが続いていると言われています。一説に、その歴史は旧約聖書創世記にまで遡ります。「ノアの箱船伝説」です。ノアの箱船が大洪水の後、定説ではトルコのアララット山に漂着したと言われてますが、イエメンにはサナアの東、ヌクム山に箱船が漂着したという説があります。洪水が収まった後、ノアの息子セムがこの地にやってきて町を開いたので「セムの町」サナアとなったという伝説だそうです。

日が徐々に高度を上げ、美しい街並みを照らし始めます。

日が徐々に高度を上げ、美しい街並みを照らし始めます。

旧市街でも古い家と新しい家があり、古い家は300~400年前に建てられたものがあります。写真は比較的新しい建物。

旧市街でも古い家と新しい家があり、古い家は300~400年前に建てられたものがあります。写真は比較的新しい建物。




ハンマーム入り口。ハンマームとは公衆浴場、トルコ式のサウナ。

ハンマーム入り口。ハンマームとは公衆浴場、トルコ式のサウナ。

ハンマームの外観。燃料などが置かれていました。

ハンマームの外観。燃料などが置かれていました。




サナア建造物は高いもので8階建てがあります。約地上25mになるこの高層建築はイエメンならではの部族社会から生まれました。それぞれの部族は居住エリアを決め生活します。月日を重ねると町の人口は増えていきます。でも土地は広げる事が出来ません。では、どうするか?・・そうです、上に伸ばすのです。こうして世界最古の摩天楼都市が誕生したのです。

マフラージから見た旧市街。マフラージとは応接間で、もてなすための特別な部屋。カートパーティーもここでします。

マフラージから見た旧市街。マフラージとは応接間で、もてなすための特別な部屋。カートパーティーもここでします。

マフラージの中の様子。この場所には靴を脱いでマットレスに座るかたちになる。かなりくつろげます。

マフラージの中の様子。この場所には靴を脱いでマットレスに座るかたちになる。かなりくつろげます。



マフラージは日本人には大変馴染みやすい習慣とくつろぎをもてなしてくれます。この場所で気の合う仲間と集まり、カートを噛んでおしゃべりする。この一日の日課を楽しみにするのは良く分かります。

続いて、旧市街コーヒー取引所の見学です。コーヒー卸売市場は「コーヒー・サムサラ」又は「ジュムルク」と呼ばれ、良質の北イエメン産「バニーマタル」などがここで検品、検量後、市場に出荷していました。しかし、現在では仲買人や(比較的大きい)農園主が直接輸入業者に持っていく事が多いため、必ずしもこの場所に良いものがあるとは限らないらしい。

ジュムルクの巨大な天秤。決まった重さの石とを天秤にかけ、公正に取引されます。

ジュムルクの巨大な天秤。決まった重さの石とを天秤にかけ、公正に取引されます。

コーヒーの袋を計る様子。

コーヒーの袋を計る様子。




ジュムルクは中庭吹き抜けの2階建て。豆の保管倉庫でもあるために物搬しやすい構造となっています。

ジュムルクは中庭吹き抜けの2階建て。豆の保管倉庫でもあるために物搬しやすい構造となっています。

ここにも石臼がありました。石臼で脱穀したコーヒーは良質なブンとギシルになります。

ここにも石臼がありました。石臼で脱穀したコーヒーは良質なブンとギシルになります。




ジュムルクの近くにアルカブース社があります。イエメンの輸出会社でスパイスや紅茶も取り扱ってます。

アルカブース社の看板。この近くにスパイス・スークがあります。

アルカブース社の看板。この近くにスパイス・スークがあります。

入り口には日本製のカップが売っていました。奥には脱穀機が。

入り口には日本製のカップが売っていました。奥には脱穀機が。



イエメン国内で消費されるコーヒーの品質は悪い。4~5級品らしい。

イエメン国内で消費されるコーヒーの品質は悪い。4~5級品らしい。

国内消費のために焙煎された豆。浅焼きで、焼きムラが多い。

国内消費のために焙煎された豆。浅焼きで、焼きムラが多い。



脱穀されたギシル。約1kgが500YR(イエメン・リヤル)で買えます。

脱穀されたギシル。約1kgが500YR(イエメン・リヤル)で買えます。

185YR=1ドル(2005年1月)。1ドル分だけ買いましたがけっこうオマケしてくれました。

185YR=1ドル(2005年1月)。1ドル分だけ買いましたがけっこうオマケしてくれました。




ギシルを日本に紹介したいのですが、出来ません。それはギシルが輸出に向いてないからです。ギシルは生物で輸出の際、菌を運ぶ可能性があるのと、仮に火を入れて輸出したとしても火の入れ方があまいと醗酵してしまうからです。つまり、ギシルからお酒が出来るのです。

スパイス・スークのイエメン人。

スパイス・スークのイエメン人。イエメン人は写真を撮るときに必ずポーズをとります。サナアの人たちは比較的、快く写真を撮らせてもらえます。ポラロイドがあればプレゼントできたのですが。次回はポラ持っていこうと思ってます。

山積みにされた色々なスパイス。スーク一体がスパイスの香りで充満してます。とにかく安く大量に買えます。オススメはシナモン。木の皮のままで売られています。

山積みにされた色々なスパイス。スーク一体がスパイスの香りで充満してます。とにかく安く大量に買えます。オススメはシナモン。木の皮のままで売られています。



サナア旧市街を見て回った後はサナア国立博物館へ。かつてのイマームが住んでいた場所が今は当時の住まいを残したまま展示品が並べられています。

国立博物館見学後は、アルカブース社の工場を見学。ここではイスマイル産のサンプルを貰ったり、アルカブースの促販ポスター貰ったり。(店の入り口のドアに張ってます。)。工場内は流石、輸出会社です。近代的な設備の中、コーヒーが選別、梱包などの作業が行われていました。

工場内の大型焙煎機。

工場内の大型焙煎機。

小型焙煎機はやっぱりプロバット。

小型焙煎機はやっぱりプロバット。



コーヒー豆の選別機

コーヒー豆の選別機。豆の中に紛れている不純物(ゴミ・小石等)が取り除かれた後、フルイにかけられていました。スクリーンに分けられていたのです。近代化に伴い選別基準を変えているのでしょう。

品質は別室で評価されます。ここでは抽出液の品質をチェックしているようでした。

品質は別室で評価されます。ここでは抽出液の品質をチェックしているようでした。




イエメンモカは主に産地名だけで取り引きされ、欠点豆の混入量でナンバーが決められていました。現在でも概ねそうですが、この工場のようにスクリーンをしっかり分けた上で出荷しているというのは近代化の影響でしょうか?しかし、イエメン最高級品に位置する「バニーイスマイル」産のコーヒーはスクリーンだけでは出荷できないような豆です。このギャップを「近代化」で変えて欲しくないものです。

国内出荷用のコーヒー。焙煎してグラインドしたものが袋に詰められていました。

国内出荷用のコーヒー。焙煎してグラインドしたものが袋に詰められていました。

工場内の様子。工場はサナアの一等地にあります。回りは豪邸が多い。

工場内の様子。工場はサナアの一等地にあります。回りは豪邸が多い。



工場見学後、アルカブース社の社長宅に昼食を呼ばれました。イエメンの食事は何処で食べてもスタイルは大体同じです。羊の肉のシチュー、トマトで煮込んだスープにホプスとよばれるインドのナンのようなパンとお米、生野菜。しかーし、アルカブース社長宅で食べたイエメン食が一番おいしかった。完全に食材の違いです。ここの食事はもう一度食べてみたいものです。

昼食後、イエメンのコーヒーを日本の市場に紹介した珈琲美美・森光さんと日本の貿易会社ワタルがアルカブースから表彰されるという一幕がありました。

昼食後、イエメンのコーヒーを日本の市場に紹介した珈琲美美・森光さんと日本の貿易会社ワタルがアルカブースから表彰されるという一幕がありました。

記念に送られたジャンビーア

その時の記念に送られたジャンビーア。とても立派です。森光さんはイエメンモカコーヒーに大きな光を当てました。その光は今年、日本の市場に紹介されなかった新しいモカコーヒー「ムニールモカ」に繋がりました。南イエメンの最高級コーヒー「ヤーフェ」地方の豆です。ムニールとはアラビア語で「光」。アルカブーススタッフが森光さんを呼ぶ愛称です。




なんと、時間を調整してイエメンの大統領がいらっしゃいました。大統領のイエメンコーヒーのこれからに対する期待などのスピーチがありました。
凄い事です。モカコーヒーを巡る旅でここまで濃厚な旅はこれから先無いのではないか、と思う瞬間でもありました。同時に、次に伝えていくのは自分のような若い世代なんだという気持ちにもなりました。

エチオピア行きの飛行機の時間まで結構やばい状態でした。一人、時計を気にする添乗員の茅根さん。このときはおつかれさまでした。2時間前には行動しなくてはなりません。滑り込むようにエチオピア行きの飛行機に。
6:00フライト。エチオピア首都アディスアベバまでは1時間45分のフライトです。
到着は定刻通り。入国審査で時間がかかりました。なんでもこの時、エチオピアのテレビ局が日本からやってきた私達を取材するとのこと。現物は見てないのですが後日、新聞に載ったそうです。
到着後。早速、バスで移動。エチオピアの伝統的な食事を出してくれるお店で遅い夕ご飯。・・・この時、「ヤバイ」と思いました。「ヤバイ、食事が口にあわん」。全体的に発酵食品が多いため酸味の強い食事なのです。しかもカライ。タイ料理のような(スッパカライ)なら食べられるのですが、エチオピア料理は(カラスッパイ)のです。似てるようでえらい違いです。
イエメン料理は口に合っていただけに軽いピンチでした。

ここでは大変なおもてなしでした。生演奏あり、歌あり、踊りあり、アルコールあり、食事あり。 コーヒーセレモニーもありましたが詳しくは後日のページで。

ここでは大変なおもてなしでした。生演奏あり、歌あり、踊りあり、アルコールあり、食事あり。
コーヒーセレモニーもありましたが詳しくは後日のページで。



ここではエチオピアの輸出会社モプラコ社ヤニ社長が合流。テレビ局の取材が始まりました。我々、日本コーヒー文化学会の旅の目的の一つ「ジェルジェルツーの世界遺産登録」がありました。しかし、テレビ局の制作スタッフが「世界遺産って何?」という状態。無理もありません、文化よりも明日の食料。この国の一面です。

取材中の様子。奥がヤニ社長。右がテレビ局スタッフ。左は広瀬教授。

取材中の様子。奥がヤニ社長。右がテレビ局スタッフ。左は広瀬教授。

左から広瀬教授、森光さん、ワタル(株)の西尾さん。

左から広瀬教授、森光さん、ワタル(株)の西尾さん。




旅もいよいよ後半戦。明日からエチオピア編です。


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